地名の由来

  • facebook
  • twitter
  • google+
  • link copy
  • print
  • 글자 확대
  • 글자 축소
地名の由来
居昌(コチャン)は古くから大いに栄える明るい所、果てしなく続く野原、広々とした平野、つまり広くて大きく明るい野原という意味で、居烈(コヨル)、居陀(コタ)、娥林(アリム)と呼ばれてきました。新羅時代の景徳王(ギョンドッワン)16年(757年)に初めて居昌と呼ばれるようになり、その後周囲の地域との分割・合併により様々な地名で呼ばれ今日に至っています。

伽耶(カヤ)時代

先史時代から先駆けて生活の場として定住した居昌は、初期伽耶時代には子他国(チャタグク)、居陀(コタ)と呼ばれるようになり、後の後期伽耶時代には大加耶連盟体に入ることになりました。

新羅時代

新羅時代初期には居他(コタ)、居列(コヨル)と呼ばれたが、景徳王16年(757年)から居昌郡(コチャングン)と称し、現在の渭川面(イチョンミョン)地域の稔禮(インレ)と南内(ナンネ)をそれぞれ咸陰縣(ハムウンヒョン)と餘善縣(ヨソンヒョン)に改称し、居昌郡に編入しました。

高麗時代

高麗時代の太祖23年(940年)に餘善縣(ヨソンヒョン)を感陰縣(カムウンヒョン)に、咸陰縣((ハムウンヒョン)を加祚縣(カジョヒョン)に改称し、顯宗9年(1018年)に陜川(ハプチョン)を陜州(ハプチュ)に昇格させ、居昌、加祚、感陰、三嘉(サムガ)、利安(イアン)などの12縣を陜州の管轄としました。

朝鮮時代

朝鮮時代の太宗14年(1414年)に加祚縣に移した巨済(コジェ)と居昌を合併して濟昌縣(ジェチャンヒョン)と称し、燕山君元年(1495年)に燕山妃の慎氏の郷貫により居昌郡に昇格したが、再び中宗元年(1506年)に端敬王后の慎氏の廃位により居昌縣に格下げされました。しかし、英祖15年(1739年)に端敬王后の復位により居昌府に再び昇格し、高宗32年(1895年)に居昌府を居昌郡に改称、その後1914年の郡面併合により、安義郡(アンウィグン)の一部(馬利面(マリミョン)・胃川面(ウィチョンミョン)・北上面(プクサンミョン))と三嘉郡の一部の神院面(シンウォンミョン)が居昌郡に編入され、居昌郡が誕生しました。

近代

近代、1937年に居昌面が邑(ウプ)に昇格し、1957年に月川面(ウォルチョンミョン)が居昌邑に編入され、さらに、1972年に咸陽郡(ハミャングン)の安義面(アンウィミョン)、真木里(ジンモクリ)、春田里(チュンジョンリ)が南上面(ナムサンミョン)に編入されました。
現在は居昌邑、主尚面(チュサンミョン)、熊陽面(ウンヤンミョン)、高梯面(コジェミョン)、北上面(プクサンミョン)、渭川面(ウィチョンミョン)、馬利面(マリミョン)、南上面(ナムサンミョン)、南下面(ナムハミョン)、神院面(シンウォンミョン)、加祚面(カジョミョン)、加北面(カブクミョン)の1邑11面の行政区域を形成しています。 p>